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[「義仲・巴」ラジオ紀行]

■ 「義仲・巴」ラジオ紀行  2020年3月放送 ■


#49「長野県朝日村」【2020.3.3放送】

長野県朝日村。松本盆地の南西に位置し、この地域で朝日が一番先に当ること、
また朝日のように輝かしく村が発展することを願って「朝日村」と名付けられたといわれています。
ここ朝日村には、義仲にまつわる伝承が由来とされる地名・名所が数多く残されています。
以仁王から平家追討の令旨を受けた義仲は、
木曽で挙兵後、烏帽子岳(えぼしだけ)の尾根沿いを進み、
朝日村を通ったとされています。
御馬越(おんまご)と呼ばれる地域は、馬に乗った義仲が山越えをして、
この地に入ったことが、その名の由来であると伝えられています。
また進軍する義仲が、後続の兵を待って足を止めたとされる「一の厩(いちのうまや)」は、
現在、「義仲公園」として整備され、義仲の遺徳を讃える祠(ほこら)が建てられています。
また、義仲によって再興されたといわれている光輪寺薬師堂(こうりんじやくしどう)は、
義仲が戦勝祈願をした際、この地に桜の苗木を植樹したと伝えられています。
今から100年以上前の明治34年に、お手植え桜は枯れてしまいましたが、
今は二代目となる桜を見ることができます。
桜は、例年4月中旬から下旬が見ごろです。
歴史深い寺のたたずまいに、桜と山の新緑といった美しいコントラストをぜひ、お楽しみください。

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#50「長野県上松町・麻績村」【2020.3.10放送】

長野県上松町(あげまつまち)。
町の中央部を木曽川が流れ、東側には標高2956メートルの木曽駒ケ岳(きそこまがたけ)がそびえます。
「沓掛馬頭観音堂(くつかけ ばとうかんのんどう)」は、義仲とその愛馬の伝説が残されたお堂です。
義仲の馬の中には、人の言葉が理解できる名馬があったといわれています。
木曽川に沿った断崖絶壁につくられた「木曽の桟(かけはし)」と呼ばれる
桟道(さんどう)を移動していた義仲は、対岸に向かうため、
馬に「七十三間(けん)、約132メートル」を跳ぶように命じます。
ところが実際の距離は七十四間あったため、馬は谷底に落ち、
義仲も危うく命を落としそうになりました。
義仲は、この地に観音堂を建てて愛馬を供養したといわれています。
また、古くから交通の要衝として栄えた麻績村(おみむら)は、
義仲の最初の合戦「市原(いちはら)の戦い」の舞台であったともいわれており、
ここにも義仲と馬にまつわる地名・伝承が残されています。
長旅の疲れで、義仲の馬が膝を「がったり」と折ったとされる「ガッタリ」。
また、急坂で疲れ、立ち止まってしまった馬が、付近の笹を一口食べたところ、
たちまち元気を取り戻したとされる「一口坂(ひとくちざか)」。
こうした地名のほか、兵馬がすさまじい勢いで通り過ぎたため、
蹄の跡が残ったという「駒が石」と呼ばれる石を見ることもできます。

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#51「石川県野々市市・富山県魚津市」【2020.3.17放送】

石川県のほぼ中央に位置し、北東部を金沢市、南西部を白山市に
それぞれ接する野々市市(ののいちし)。
野々市市は、加賀国の有力武将であった富樫氏(とがしし)、
林氏(はやしし)の本拠地があったことで知られています。
富樫、林の両氏は、ともに平安時代前期の武将、藤原利仁(ふじわらのとしひと)を祖としており、
源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)によれば、北陸における源平合戦、
越前での「燧ヶ城(ひうちがじょう)の戦い」や、
加賀・越中の国境での「倶利伽羅峠の戦い」において、
義仲の軍勢に加わっていたとされています。
富樫氏の第6代当主、泰家(やすいえ)は、義経と弁慶の忠義の物語
歌舞伎「勧進帳」に登場する富樫左衛門(さえもん)のモデルとしても知られています。
その後室町時代には、富樫氏は代々加賀守護を務め、
現在も石碑が残る「富樫館跡(やかたあと)」周辺は、
長く加賀における政治・経済・文化の中心地として栄えたといわれています。

富山県魚津市に残される義仲ゆかりの史跡。
市街地から離れた山中にある「木曽ヶ平砦(きそがたいらとりで)」は、
義仲の軍勢が一時期、潜んでいた城跡で人々から「木曽屋敷」と呼ばれていたと伝えられています。
北陸武士団を味方につけて、越中、加賀での激戦を戦い抜いた義仲。
その進軍ルートには、今も数多くの史跡・伝承が残されています。

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#52「長野県東御市」【2020.3.24放送】

長野県東御市(とうみし)。
県東部に位置し、烏帽子岳(えぼしだけ)や蓼科山(たてしなやま)を
はじめとする雄大な山なみ、東西に流れる千曲川(ちくまがわ)の清流など
豊かな自然に恵まれています。
また、緩やかな傾斜の多い地形、冷涼で乾燥した気候など、
古くから馬の飼育に適していたため名馬の産地として栄え、
平安時代には、現在の東御市本海野(もとうんの)あたりを本拠とした
海野氏(うんのし)をはじめとする滋野一族が、騎馬力を誇る武士団として成長しました。
平家物語にもその名が残されている海野幸親(うんの ゆきちか)。
幸親は、嫡男 幸広(ゆきひろ)とともに平家打倒を掲げる義仲に
従い、侍大将として信濃武士団を率いました。
また、幸広の子 幸氏(ゆきうじ)は、義仲が源頼朝との和睦のため、
人質として鎌倉に送った嫡男 義高に付き従い、義仲亡き後には、
頼朝に命を狙われた義高を逃がすため、身代わりとなります。
その後、義高は追っ手に捕えられ、最期を遂げることになりますが、
頼朝は、幸氏のその忠節と武勇を称え、後に家臣に加えたといわれています。
千曲川沿いの白鳥河原(しらとりがわら)は、
平家方の武将 越後の城氏(じょうし)との「横田河原の戦い」にあたって、
二千騎以上の義仲軍が結集した地といわれており、近くには戦勝を祈願したとされる
白鳥神社(しらとりじんじゃ)が今も残されています。

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#53「埼玉県深谷市・神奈川県小田原市」【2020.3.31放送】
 
埼玉県深谷市。深谷市は武勇の誉高く、清廉潔白な人柄から
「武蔵武士の鑑」と称された畠山重忠(はたけやま しげただ)生誕の地として知られ、
館跡(やかたあと)一帯は、畠山重忠公史跡公園として整備されています。
重忠の父である重能(しげよし)は、義仲の父 義賢(よしかた)が討たれた際、
敵方でありながら、義仲 幼名駒王丸を不憫に思い、
斎藤実盛に託して木曽へ逃した武将として知られています。
また重忠は、源頼朝率いる鎌倉軍の武将として、巴と一騎討ちを演じたとか、
源平合戦のひとつ「一ノ谷の戦い」において、愛馬を背負って鵯越(ひよどりごえ)の崖を
一気に駆け下りたという逸話も残されています。

神奈川県にも、巴御前ゆかりの地などが数多くあります。
義仲から落ち延びるよう諭された巴は、頼朝に召され、
和田義盛(わだ よしもり)の妻になったといわれています。
三浦市には、巴が過ごしたとされる和田城があったと伝えられており、
今も石碑が残されています。
小田原市には、巴が義仲、そして和田一族の菩提を弔うために創建したと伝わる
「善栄寺(ぜんえいじ)」があり、義仲と巴の五輪塔を見ることができます。
このほか、頼朝が幕府を開いた鎌倉市には、義仲の嫡男 義高の墓や、
義高の許婚で頼朝の娘である大姫(おおひめ)を供養する岩船(いわふね)地蔵堂があり、
悲恋に満ちた幼い二人を偲ぶことができます。

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