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[「義仲・巴」ラジオ紀行]

■ 「義仲・巴」ラジオ紀行  2019年9月放送 ■


#23「富山県高岡市」【2019.9.3放送】

高岡市の中田(なかだ)地区。
新しい元号「令和」の出典である日本最古の歌集「万葉集」にも詠まれるこの地区は、
庄川の清流に恵まれた豊かな自然環境が今も残されている地域です。
義仲討伐のため京を北上し、越前、加賀を制して越中へ軍を進める平家軍。
一方、平家打倒をめざして越後から越中へと軍を進める義仲軍。
両軍が激突した「般若野の戦い」はこの地を中心に繰り広げられ、
義仲軍が勝利したと伝えられています。
この中田地区では、地元の自治会などが中心となって、商店街の活性化や賑わいづくりのため、
毎年「中田かかし祭」が行われています。
中田中央公園やコミュニティセンター周辺を会場として、
その年の世相を映した多彩な「かかし」、約200体が訪れる人を迎えます。
なかでも、テーマかかしゾーンでは、「義仲 上洛への道」と題して、
甲冑を着けた源平両軍のかかし、およそ30体で「般若野の戦い」などを再現。
地元の歴史を紹介するとともに、「義仲・巴」大河ドラマ化の機運を盛り上げるのにも一役買っています。
36回目となる今年は、9月22日、23日の2日間、かかしの展示のほか、
フリーマーケット、ステージアトラクションなど盛りだくさんです。
皆さんのお越しをお待ちしています。

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#24「富山県小矢部市」【2019.9.10放送】

西暦1183年、寿永2年の5月、義仲は、
生涯で最大の戦いといわれる「倶利伽羅峠の戦い」に先立ち、
埴生八幡宮で戦勝祈願を行います。
その御利益もあって、義仲軍は実に2倍以上の勢力をもつ平家の大軍に打ち勝ちます。
毎年9月、埴生護国八幡宮で行われている「宮めぐりの神事」は、
この戦いに勝利した義仲がお礼参りをした様子を再現した神事として、
古く江戸時代から伝えられています。
日の丸の馬標(うまじるし)が付いた、長さおよそ4mの道祖幣(どうそへい)を手にした氏子の長老を先頭に、
烏帽子(えぼし)に狩衣姿(かりぎぬすがた)の御幣奉持者(ごへいほうじしゃ)や、
古文書の箱を手にした男の子たち、さらには甲冑で身を固めた武者姿の若者らが隊列を組み、
笛や太鼓の囃子に合わせて神社拝殿の周囲を回ります。
長さおよそ30メートルに及ぶ拝殿を7回半まわった後、武者たちは、
弓や刀を振りかざし、「うおーっ」と大きな鬨(とき)の声をあげながら、
本殿をめがけて駆け込みます。
その勇ましい姿は迫力満点で、戦いに勝利した義仲の喜びと、
八幡宮に対する感謝の気持ちがよく伝わってきます。
今年は9月15日の日曜日に開催される「宮めぐりの神事」。
古式ゆかしく、素朴でありながらも、勇壮果敢な伝統行事に、
源平ロマンを感じてみてはいかがでしょうか。

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#25「富山県砺波市」【2019.9.17放送】

庄川と散居が織りなす花と緑のまち砺波市。
緑豊かな美しい景観が広がる砺波市にも、
義仲にまつわる数多くの伝承が残されています。
現在の高岡市南部から砺波市東部にかけた一帯で繰り広げられた「般若野の戦い」。
この戦いに勝利した義仲軍は、後退する平家軍を追って倶利伽羅峠に向かいます。
途中、義仲軍は庄川を渡ることになりますが、
この際、地元住民の案内により「事もなく」、「やすやす」と
川を越えることができました。
この時の出来事が由来となり、この辺りの地名が「安川」と名付けられたといわれています。
また、義仲軍が進軍途中に昼食をとったとされる砺波市小島(おじま)地内の午飯岡(ひるがおか)には
石碑が残されているほか、義仲がこの辺りで食べたという木曽柿の伝承、
さらには高波地内の川田(かわた)八幡宮は
義仲が戦勝祈願した神社として伝えられています。
平家打倒をめざして信濃国(しなののくに)、現在の長野県で挙兵してから、
近江国(おうみのくに)、現在の滋賀県で最期を遂げるまで、
義仲が、決して自らの立身出世のためでなく、平家の悪政を正すため、
正義と高い志をもって、国や民を想い、立ち上がった姿は、
多くの人々の共感を得ながら、様々な伝承とともに語り継がれています。

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#26「富山県小矢部市」【2019.9.24放送】

平安時代末期、源平合戦で活躍した源氏の大将 木曾義仲のそばには、
2人の美しい女武将、「巴御前」と「葵御前」の姿がありました。
富山・石川両県の県境、小矢部市の倶利伽羅峠の麓には、
今も「巴塚」、「葵塚(あおいづか)」という2つの塚が並んでひっそりと残されています。
2人については、いつ、どこで生まれたかなど諸説さまざまあり、
はっきりとは分かっていません。
源平合戦について記した「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)」によると、
葵御前は「倶利伽羅峠の戦い」で討ち死にしたとされており、
巴御前と同様に、美しさに強さを兼ね備えた葵御前が、
平家打倒のため、義仲軍の武将の一人として、大活躍していたことがうかがえます。
義仲は、葵御前を弔うため、倶利伽羅峠の麓に葵御前の塚を築きました。
一方、巴御前は義仲が最期を遂げる、現在の滋賀県「粟津原(あわづがはら)の戦い」まで義仲とともに戦いますが、
最後には義仲に諭され、落ち延びることになります。
巴はその後、越中の武将 石黒光弘を頼って現在の南砺市福光に移り住み、
91歳まで生きたとされています。
そして、遺言にもとづき、葵の塚のそばに、巴の塚が築かれました。
2人の塚を前に、義仲を支えた美しい女性たちの生涯に
想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 
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