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[「義仲・巴」ラジオ紀行]

■ 「義仲・巴」ラジオ紀行  2019年5月放送 ■


#6「滋賀県愛荘町」【2019.5.7放送】

琵琶湖の東、湖東地域に位置する滋賀県愛荘町。
豊かな自然と美しい水辺空間に囲まれたこの町には、
奈良時代中期に聖武天皇と行基菩薩によって開かれた天台宗の寺院、
金剛輪寺があります。

1年を通して、石楠花や紫陽花、紅葉をはじめとする
季節の花や緑に彩られ、中でも、国宝である本堂周辺や、
国指定の名勝庭園の深紅に染まる色鮮やかな紅葉は
「血染めのもみじ」と呼ばれ、広く知られています。

この金剛輪寺には、源義経が兄である源頼朝から義仲追討の命を受けた際、
決戦に先立ち、戦勝祈願に太刀を奉納したという言い伝えが残されています。

同じ源氏に生を受け、打倒平家のため京を目指して立ち上がった義仲と義経。
いとこ同士であり、互いに天才武将と称されながらも、
最後は頼朝と対立し、ともに31歳という若さで生涯を閉じることになります。

義経が、果たしてどのような思いでこの寺に赴き、
戦勝を祈願したのか。その心の内を知ることはできません。

その後、戦国時代、織田信長により近江各地の寺院が焼き討ちされるなか、
金剛輪寺は僧侶の機転により全焼をのがれ、今日に至っています。

今月1日からは、約800年ぶりに復元された
「金剛界八十一尊曼荼羅(こんごうかい はちじゅういちそん まんだら)」の特別公開が
開催されています。
公開は今月20日まで。ぜひお出かけください。

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#7「富山県高岡市」【2019.5.14放送】

富西暦1183年、寿永2年5月、
越中国・般若野で繰り広げられた源平合戦「般若野の戦い」。

富山県高岡市南部から砺波市東部地域における戦いといわれ、
なかでも、「弓の清水古戦場」は現在、高岡市の常国神社境内の
閑静な小公園として整備され、高岡市の史跡にも指定されるなど、
義仲にまつわる伝説が今も残されています。

義仲討伐のため京を北上し、越前、加賀を制して越中へ軍を進める平家方。
一方の源氏方は、義仲自らも越後から越中へと軍を進めるなか、
乳兄弟で「木曾四天王」の1人といわれた今井兼平を先遣隊として向かわせます。
そして両軍は般若野で激突、兼平の奇襲も功を奏して義仲軍は勝利します。

その後、義仲軍本隊も合流しますが、
戦いに疲れた兵士たちはしきりに喉の渇きを訴えます。
次の戦いに備えて飲み水を求める義仲は、地元村人の案内のもと
「南無八幡大菩薩」と唱えながら、大地に弓の矢を放ちます。

するとそこから、こんこんと清水が湧き出し、
これにより士気を取り戻した義仲軍は、義仲最大の合戦の地、
倶利伽羅峠へ向かったと伝えられています。

この湧水は、「弓の清水(しょうず)」と呼ばれ、
平成20年には「平成の名水100選」に選定され、
また地元の「常国旧蹟保存会」の皆さんにより、
現在も大切に管理されています。

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#8「石川県加賀市」【2019.5.21放送】

石川県南西部に位置する加賀市。
ここは「篠原の戦い」の地として、
義仲や斎藤実盛にまつわる多くの史跡が残されています。

富山・石川県境の「倶利伽羅峠の戦い」で、平家軍は義仲軍に大敗。
後退する平家軍は、加賀平野を南下し、篠原の地で陣の立て直しを図ります。

しかし、義仲軍の勢いを止めることはできず、
「篠原の戦い」でふたたび敗れることになります。

敗走する平家軍の中にあって、ただ一騎踏みとどまり、戦う武将の姿がありました。
この武将こそ、斎藤実盛でした。

「篠原の戦い」から遡ること20年以上も前、義仲、幼名「駒王丸」は、
父 義賢(よしかた)が討たれ、自らも殺される運命にありました。

しかし実盛は、敵方の息子である2歳の義仲を不憫に思い、
母 小枝御前(さえごぜん)とともに信濃国に逃がします。

義仲の命の恩人である実盛。
この戦いで、その名を名乗れば、命は助かったかもしれません。

しかし、実盛は情けを受けることを潔しとせず、
それどころか老武者として侮られることを恥として、
白髪を黒く染め、劇的な最期を遂げました。

はからずも、恩人 実盛の首と対面した義仲は、その首を抱きかかえて、
人目もはばからず泣き崩れたといわれています。

黒髪に染めた実盛の首を洗ったといわれる篠原古戦場の首洗池には、
この時の様子を描いた銅像が建てられています。

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#9「長野県塩尻市」【2019.5.28放送】】

31歳でこの世を去った義仲。
長野県には、幼少期から青年期にかけて多くのエピソードが残され、
義仲伝承の宝庫ともいわれています。

なかでも塩尻市洗馬(せば)地区にはこんなエピソードが残されています。
「太田の清水」。

義仲が打倒平家のため軍を進めるなか、馬の疲れを癒すため、
この地の清水で馬の脚やからだを洗ったところ、
たちまち元気を取り戻したといわれています。

古い文献によれば、このことが由来となってこの地区を「洗う馬」と書いて
「洗馬(せば)」と呼ぶようになったそうです。

次に、「義仲 馬の足跡」といわれる岩に残された跡。
小曽部川に突き出た大きな岩に、義仲が乗っていた馬がつけたとされているもので、
そこに溜まる水は眼病に効くとされています。

それから芦ノ田の鏡岩。
洗馬地区芦ノ田の裏山にある大きな岩は、
昔、遠くからも輝いて見えたといわれており、
木曽路を上ってきた義仲の馬がそのあまりの輝きに驚き、
義仲が落馬したといわれています。

最後に、小枝御前のお墓や供養塔が残る長興寺。
義仲の母、小枝御前は、夫 義賢が討たれた後、まだ2歳であった義仲、
幼名「駒王丸」を伴い、中原兼遠を頼って木曽に逃れてきました。

その後、駒王丸の行く末を案じながら亡くなり、
この地に手厚く葬られたそうです。

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