両方になる
2019年10月2日
昨日、富山県美術館で開催中の企画展
「日本の美 美術×デザイン−琳派、浮世絵版画から現代へ−」
を見てきました。
合わせて同時開催中の
「びじゅチューン!× TAD なりきり美術館」
も体感してきました。
例えば、北斎のビッグウェーブを体感できるコーナーでは、
叫ぶ声の大きさで波の大きさが変わります。
こちらはお子さん向けですが、
平日の夕方で私の貸し切りということもあり
スタッフの方から「どうぞ」とすすめられ、私も体験してみました。
最初は遠慮気味に声を出したら「小波」でしたが、
スタッフの方から「大波が出るまでどうぞ」と言われたので、再度チャレンジ!
無事「大波」が出ました。笑
ちなみに「富士山」と叫ぶのですが、
ポイントは大きな声を出すのはもちろん、
「ふーじ、さーーーーーん!!」と伸ばすことだそうです。
ぜひ恥ずかしがらずにやってみてくださいね。笑
これらの企画展を見て体験をして、浮世絵は見飽きないなあと思いました。
人の表情や動きから温もりが伝わってくるのです。
突然の雨に逃げ出す人たちの動きなんて、心の声が聞こえてくるほどです。
また、波のうねりの描き方もまるで生き物のようですし、
雨の描き方もただの線に見えて、実は奥が深かったりと
見ていて本当に楽しかったです。
そして、ふと、私の後ろに実は北斎や広重がいて、
私が作品を見ているのをあれこれ言いながら見ていたら・・・
と想像してみました。
その作品は素通りしちゃうの?とか、
おお、その作品は気に入っているのね、などと
言われていたら面白くないですか?
いや、怖いかな?笑
***
今日ご紹介する本は、
まさに鑑賞中の絵を描いた画家から
こっそり後ろから見つめられる少女と、その画家の物語です。
『両方になる/アリ・スミス 著、木原善彦 訳(新潮クレスト・ブックス)』
本の帯には、「作家の西加奈子さん絶賛!」とあります。
その一行で、普通の物語では無いなと思いましたが、
きっと面白いに違いないと思って読んでみました。
しかし、正直なことを言うと、読み始めてすぐの私の感想は、
「これは面白いのか?意味が全然分からないのだけど…」でした。
落ち着きのない時の自分の頭の中のように
目まぐるしく場面が変わっていくので、ついていくのに必死でした。
しかも何について話しているのか、全くわからない。
それが面白さでもあるのだけど、
わからないから、うーん。これは読みにくい、と思ってしまったのです。
でも最後まで読んで、再度一ページ目から読んだら、
なんと言葉がキラキラと輝いていることか!
印象がまったく異なりました。
突拍子も無い発言だと思った言葉も
確かにここじゃなきゃだめだ、としっくりきましたし、
話の先を知っているからこその可笑しさもあって、ニヤニヤが止まりませんでした。
こんなに面白い作品だったなんて!
まるで別の物語を読んでいる気分でした。
ああ、こんなことってあるのかと、新たな読書の楽しみを味わいました。
久しぶりに再読したくなる…ではなく、再読した作品でした。
***
『両方になる』は、どんな作品なのか軽くご紹介しましょう。
ともに「第一部」と題された二つのパートから成っています。
2回目の「第一部」を見たときは「?」となりましたが、間違いではありません。
目のマークの「第一部」では、
十五世紀頃に実在したイタリア人画家のフランチェスコ・デル・コッサが蘇って
現代のイギリスに現れる物語です。
写真を見て、実物にそっくりの絵だと思ったり、
皆が馬に乗っていないことに驚いたりします。
でも、フランチェスコの存在は誰にも見えません。
一方、監視カメラマークの「第一部」は、
フランチェスコに見られている少女の物語です。
彼女は、フランチェスコの絵を何度も見に行っています。
***
そして、この本には特別な仕掛けがあります。
なんと本によって、作品の順番が異なるのだとか!
私が読んだものは、フランチェスコの物語が先でしたが、
少女の物語が先のバージョンもあるそうです。
それも本を開いてみないとどちらが先なのかわからないんですって。ワーオ!
つまり、先にどちらの物語を読むかで人によって印象は全然異なるわけです。
とにかく仕掛けがたくさんある物語でした。
なお、『両方になる』は、一文一文が短く、まるで詩のようでもあって、
声に出して読みたくなりました。
声に出して読むと、まるで私自身から言葉が溢れ出ているような錯覚に陥るほど
テンポがとてもいいのです。
『両方になる』は、普通の小説ではないので、好みは分かれるかもしれませんが、
私はいろいろな意味で楽しませてもらえた一冊でした。
あなたも秋の夜長にどっぷり本に遊ばれてみるのはいかが?(笑)