8月2日 gra書パート2
2011年8月2日
「gra書」 書家エピソード VO.17 亀田鵬斎1752(宝暦2)-1826(文政9)
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
17回目の今回は、亀田鵬斎(かめだぼうさい)についてご紹介します。
動物の亀に田んぼの田、元横綱大鵬の鵬に大阪・心斎橋の斎、下の部分が複雑になっている斎と書きます。
この亀田鵬斎は、江戸時代の後期の人です。
歴史の授業で出た、「化政文化」のころに活躍した、儒学者であり、書家であり、文人であります。
6歳で書を学び、14歳で学問の世界に入ります。
23歳で自ら朱子学の塾を開いて人気を博しましたが、
当時松平定信によって行われた「寛政の改革」で、朱子学以外の学問を教えているとして排斥の憂き目にあって多くの弟子を失うなど、厳しい状況に追い込まれたこともありました。
その後、50歳ごろから全国各地を旅して、以前このコーナーで紹介した良寛とも面会し、60歳から書家として江戸で大人気となります。
晩年は、書と詩をたしなんで過ごしたということです。
この亀田鵬斎の書ですが、
先ほどお話ししたように歳を取ってからの作品が高い評価を受けています。
当時、依頼を受けて字を書く・揮毫すると、1日で5両、だいたい今の金額にすると150万円ほどの収入を得ていたともされています。
実際見作品を見てみると、細い線で大胆に書かれた草書の作品が多く残されています。
掛け軸に書かれたものや屏風に描かれたもの、扇面(せんめん)・扇子に書かれたものまで、様々なモノが残されています。
以前このコーナーで紹介した、草書の大家の1人、懐素を彷彿とさせるような書き方です。
また、草書以外の作品も残されていて、こちらを見ても、細い線で跳ね上がるような書き方がされています。
欧米のコレクターからは、この鵬斎の書を「フライング・ダンス」と表現されていますが、空間を飛び越えて筆が躍るような躍動する文字を見ると、「フライング・ダンス」の表現はあながち的を射ているともいえるかと思います。
そんな鵬斎は、心の優しい人柄でも知られています。
江戸時代に浅間山が大噴火したという出来事がありました。
現在の関東一帯に大きな被害が出ましたが、鵬斎は、この噴火による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払って救済に充てたといわれています。
また、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の忠義に感嘆して、私財を投げうって高輪の泉岳寺に記念碑を建てています。
そして、定宿としていた浦和の宿屋がつぶれそうだという話を聞くと、その状況を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っています。
また、亀田鵬斎が落語のモチーフにもなっています。
富山市出身の落語家、柳家さん生師匠が、今年年明けの「志の輔のこころみ新春編」で披露されていたのが「亀田鵬斎」でした。
「亀田」は、一文字何両という値が付くほどの貧しい書家、鵬斎がひょんな事からおでん屋の看板を書いてやる。と、その看板が高値で売れる。自分は看板を売って商売をしているのではない、とその金を鵬斎に返しに行くおでん屋。という話です。