7月26日 gra書パート2
2011年7月26日
「gra書」 書家エピソード VO.16 隠元隆1592(万暦20・文禄元)-1673(寛文13)
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
今回は、16回目。今回は、隠元隆(いんげんりゅうき)についてご紹介します。
隠元と聞くと、インゲン豆の隠元?とイメージされる方もいるのではないでしょうか。それは、だいたい正解です。
インゲン豆は、インゲンが来日した際に持ち込んだとされています。もともとは中南米の原産で、ヨーロッパからユーラシア大陸、中国を経て日本にやってきました。
ただし、実際に隠元が持ち込んだのは、今でいう「フジ豆」ではないかという説もあるため、だいたい合ってるとされています。
さてこの隠元、日本にインゲン豆を持ち込んだと今お話ししました。
もともとは中国福建省の生まれで、禅宗の僧侶です。
なぜ日本にやってきたかといいますと、長崎の崇福寺(そうふくじ)の住持(じゅうじ)、いわゆる住職の職に空きが出たため、呼ばれてやってきました。
この崇福寺は、長崎で貿易を行っていた福建省の華僑の人たちが建てたもので、ずっと福建省の僧侶が住職を務めていました。隠元がやってきたとき、彼の弟子20人が同行したということです。
その後、日本で鎌倉時代に伝わったとされる、臨済宗と曹洞宗の復興に大きな影響を与えて、多くの信者から支持を集めました。
その中で、京都に「萬福寺(まんぷくじ)」という寺を開いて、「黄檗宗(おうばくしゅう)」という新しい禅宗を日本で広めました。
さて、この隠元の書ですが、やはり僧侶ということで、お寺などに掲げられる扁額(へんがく)、横に長い額の文字が多く残されています。
隠元の扁額の文字を臨書しました。右から「初登寶地」と書かれています。
扁額の文字は、大きな筆でぐいぐいと書かれた行書や草書が多く見られます。とても分かりやすくて、ダイナミックな印象を与えます。
また、その一方で、横幅が長い紙に、行書や草書で細かく書かれた作品も残されています。こちらも、勢いのある文字で、力強さを感じさせます。また、縦に長い紙に1行で一気に行書や草書を書き上げた作品もあります。
隠元の1行書を臨書しました。「仁風楊海岳」と書かれています。
この隠元は、先週番組で紹介した文人画の大家、池大雅よりも少し前の時代の書家でした。池大雅が書いたような、縦に長い紙に漢詩を書く、条幅作品は、隠元のころはまだ広まっていませんでした。
この隠元の書は、日本のいわゆる文人の書の少し前の時代の作品に当たっていて、彼が開いた「黄檗宗」という宗教から、「黄檗芸術」の1つとされています。実際に書かれている内容も、宗教に関するものが多いです。
その隠元、初めのところでインゲン豆を広めたというお話をしましたが、他にも彼に関するエピソードが残されています。
まずは、「煎茶」。これは、中国の明の時代に広まったお茶の飲み方ですが、これを日本に伝えたのが隠元とされています。
当時、抹茶に替わる新しい飲み方として大変流行したそうです。
そしてもう1つ。「寒天」です。この寒天、江戸時代に作られるようになった食べ物ですが、「寒天」という名前を付けたのが隠元と言われています。「寒天」は、「寒晒しのところてん」から、「寒天」だそうです。