5月24日 gra書 パート2
2011年5月24日
「gra書」 書家エピソード VO.7 橘逸勢(たちばなのはやなり) ?-842
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
今回は、前回に続いて日本人の書家を紹介します。今日紹介するのは、「橘逸勢」です。
前回紹介した空海、そして、嵯峨天皇と並んで、日本の三筆の1人とされています。
この方は、以前紹介した空海とともに、遣唐使として唐にわたりました。そこでは、書や絵画の素晴らしさを認められて、秀才とまで呼ばれたそうです。そのあと日本に戻ってきて、官僚としてお勤めをしていました。ですが、842年、嵯峨天皇、このころは上皇と呼ばれていましたが、嵯峨上皇が亡くなった後、橘逸勢が仕えていた皇太子を、権力争いに巻き込まれないようにしようとしていたところで、謀反の疑いをかけられてつかまってしまいます。その後重罪人として、すべての地位をはく奪されて伊豆へ追放される途中に病気で亡くなりました。
橘逸勢には娘がいましたが、彼女は出家して、逸勢が亡くなった場所で彼を葬って供養したということです。今の静岡県浜松市に「橘神社」という神社がありますが、ここで橘逸勢が葬られたと伝えられています。のちに、逸勢の謀反の罪は無実だとして、勲位が贈られました。
さて、この橘逸勢、三筆の1人と先ほどもお話しました。当時彼は、平安京にあった門の額の字を書いたといわれていますが、残念ながら今も残されているものはほとんどありません。
彼が書いたものとされる書として挙げられるのは、「伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)」です。
これは、桓武天皇の娘、伊都内親王が、現在の京都の興福寺に土地を寄付するにあたって書かれた文章です。
そして、この願文は、もう1つ特徴的なモノがあります。それは、ところどころにつけられた朱色の手形です。この手形は、伊都内親王本人の手形とされています。全部で25ヶ所に見られます。それだけ親王の想いが強いということの表れなのかもしれません。