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5月3日 gra書 パート2

2011年5月3日

ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。

4回目の今日は、

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「おうようじゅん」を紹介します。
 彼は、唐の初めに活躍した書家です。本当の職業は、中国のお役人で、教育者として、当時貴族の子供たちを教える大学の教授を務めていました。大学の教授という点では、前回紹介した虞世南と同じです。
 また、書道においては、唐の時代の中でも第一級の実力者といわれていて、楷書でいくつも名品を残しています。その中でも最も有名なのが、「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」です。

image04501.jpg 臨「九成宮醴泉銘」 

これは、唐の太宗皇帝が避暑地としていた九成宮で、醴泉・甘い味がする水がわき出たということで、これを記念して建てられた石碑の文章です。この九成宮醴泉銘は、今の中国内陸部、陝西省に現在もあります。
 中身はといいますと、唐の太宗皇帝が避暑、暑さを避けるためにやってきてから醴泉がわき出るまでの事の顛末が書かれています。
この文章によりますと、太宗皇帝は、長い間政治を行っていたために、精神的な疲れが出て病気になったそうです。針やお灸に行っても治らなかったため、九成宮で静養していました。そんなある日、九成宮で土の湿り気を感じた皇帝が杖をついたところ、水がわき出たということです。昔の書物に、わき水を飲めば長患いが治ったと書かれていたので、この水を飲んで太宗皇帝も長生きされることを切に望みます。」という内容が書かれています。文字は、形も線もムダのない非常に整ったもので、楷書の勉強をするうえで必ず練習するものの1つです。
 さて、この王陽詢、今も書道の勉強の基礎になっているくらい、文字に関しては抜群の美しさがありましたが、彼自身はというと、まったくイケてなかったそうです。多くの書物に、容貌が醜かったと書かれています。どれくらい醜かったのかというのは、肖像画が残されていないためわかりません。ですが、歐陽詢が猿に似ていたということで1つ物語ができたくらいなので、相当なものだったのかもしれません。
彼が醜かったというエピソードとしてこのような話があります。
当時の皇后さまが亡くなられたとき、喪服姿で登場した王陽詢があまりにも醜かったので、ほかの役人が思わず笑ってしまったそうです。すると、喪に服しているときに笑ったいうことをあとで糾弾されて、その笑った役人が左遷されてしまった、ということです。
 

takanobu827 9:44 am