4月26日 gra書 パート2
2011年4月26日
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
3回目の今日は、
彼は、中国の初唐、唐の初めのころに有名になった書家です。本当の職業は、お役人さんで、当時の貴族の子供たちが通う学校の教授を務めたこともあったということです。
また、当時の太宗皇帝と、仕事だけでなく、プライベートでも付き合いを認められる存在になって、彼が亡くなったときには、太宗皇帝の横に墓をつくって、そこに埋葬されたそうです。虞西南が亡くなった時、太宗皇帝はどんな様子だったかというのが、歴史の本にこのように書かれています。
「太宗は別室で大声をあげて泣き叫んだ。そして、”虞世南と私とはいつも一体であった。私の足らないところをカバーしてくれ、私は1日も彼を忘れたことがないのだ。本当に忠実な家来であり、人々の手本でもあった。ところが今、彼は亡くなってしまった。この悲しみをどのように表現したらよいのだろうか”といった」
前回紹介した顔真卿(がんしんけい)は、同じ役人で皇帝に忠実に仕えたにもかかわらず、最後はいわゆる政治犯として殺されてしまう、悲しい運命をたどりましたが、この虞西南は、皇帝のお友達だったわけですから、何とうらやましい待遇だったのか、と思いますね。
さて、この虞西南は、楷書がとても美しいということで有名です。その代表作が、「孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)」です。これは、今でいう中国の国立大学の中に、孔子廟(こうしびょう)という、孔子を祀る建物が建てられたのを記念して造られた石碑です。ここに刻まれた文字は、楷書を勉強するお手本として、とても有名です。硬さを感じさせない、伸びのある文字は、同じ時代に活躍した書家、歐陽詢(おうようじゅん)が書いた「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」と並んで、楷書の名品といわれています。私今井も、楷書を勉強するうえでいちばん最初に練習したのは、「孔子廟堂碑」でした。
孔子廟堂碑の一部の文字を臨書(りんしょ)、まねて書いてみました。
そんな、書道の基本を学ぶ教材として多くの人が目にし、練習してきた「孔子廟堂碑」ですが、石碑自体は、完成して間もなく火事で壊れてしまいました。これを、のちの則天武后の時代に修復しましたが、現在は存在していません。ですので、現在私たちが本などで目にできるのは、もっと後の時代に見つかった拓本、石碑の文字を写し取ったものです。しかし、これも、文字の数が合っていないなど、100%完全なものではないとされています。
裏を返せば、もともとの石碑がなくなったとしても手にしたい、それだけ素晴らしいものだということなのではないでしょうか。