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4月19日 gra書 パート2

2011年4月19日

ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。

今回は、「顔真卿(がんしんけい)」です。

 前回は、王羲之を紹介しましたが、その王羲之に次いで有名な書家といえるのが、顔真卿です。

 彼は、唐の時代、日本でいいますと、奈良時代に活躍しました。やはり中国のお役人さんです。この顔真卿は、とても忠義に篤い人で、それが原因で波乱の人生を送りました。お役人に登用されたものの、いわゆる上司とのそりが合わずに左遷されたり、中国で内乱が起きたときに、自衛軍を組織して反乱軍と戦ったり、最後には、今でいう政治犯として捕えられて処刑されました。その様子があまりにも劇的だったことから、のちに江戸幕末のころに、浅見絅斎(あさみけいさい)という儒学者が書いた「靖献遺言(せんけんいげん)」という書物にそのエピソードが書かれています。

なお、彼は死後仙人になり、棺を開いてみたら中は空っぽだった、という話も残されています。

この顔真卿の代表的な作品は、「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」です。これは、文稿、いわゆる草稿、下書きです。ですので、ところどころぬりつぶしや書き直しが見られます。ですが、これが、中華史上屈指の名筆とされて、歴代の皇帝が所蔵していました。現在は、台湾の故宮博物院に所蔵されています。

この祭姪文稿には、顔真卿の甥に当たる「顔季明」のための弔いの文章がつづられています。先ほど、中国で内乱が起きたときに、顔真卿が自衛軍を組織したとお話しましたが、この内乱で、顔真卿の親族が何人も亡くなりました。その悲しみが祭姪文稿の中で露わに記されています。文章の終盤では「お前があまりにもかわいそうで胸が張り裂け、心も顔も震わせつつ嘆きいたんでいます」と書かれています。この一文からでも、顔真卿の気持ちが読み取れます。

 これと並んで有名なのが、「争座位稿(そうざいこう)」と呼ばれるものです。これは、中国の長安で行われる宮中行事で、ある役人が、宮中の儀式を行う席順で、従来のしきたりを破ったことに対して、抗議する文章の下書きです。忠義に篤い役人だった顔真卿にとっては、役人の勝手な振る舞いを見過ごせなかったのでしょう、このことを皇帝に知らせようと抗議文を書いたのです。しかし、逆にこの抗議をほかの役人に誹謗されて、顔真卿は左遷されてしまいました。中国の動乱の時代に生きた顔真卿の文章は、その時代背景を如実に物語っています。

 その顔真卿、皆さんの身近なモノのルーツになっています。現在皆さんがよく目にする、活字の「明朝体」。この明朝体のおおもとは、この顔真卿の文字とされています。彼は、楷書の文字にも名品がいくつも残されていて、横の線は細く、縦の線は太く、右のはらいの線がぐっと肉厚に書かれています。明朝体の字の書き方も、横の線は細く、縦の線は太く書かれています。これは、彼の文字から来ているといわれています。また、賞状の文字も彼の字が応用されているといわれています。

顔真卿は、人生は波乱万丈でしたが、彼が残したものは、私たちの生活にもつながっているのです。

takanobu827 10:18 am