9月13日 gra書パート2
2011年9月13日
「gra書」 書家エピソード VO.23 市河米庵1779(安永8)-1858(安政5)
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
先週から3週にわたって、「幕末の三筆」をご紹介しています。
今日ご紹介するのはその1人、市河米庵(いちかわべいあん)です。
市河米庵は、儒教の学者で漢詩の詩人でもあった市河寛斎(いちかわかんさい)の息子として生まれました。
儒学に関しては、父親などから学んで、書道に関しては、勉強で長崎に滞在したときに、中国の書家から学んだといわれています。
そのあと、唐の時代や宋の時代の中国の書道を学んで研究したそうです。
市河米庵の名前、米庵というのは、宋の時代の書家・米芾(べいふつ)にちなんでつけたものです。
そのあと、20歳の時に書道の塾を開いて、人気の書家として活躍しました。
多い時には5,000人のお弟子さんがいたということです。
また、書家としての人気は、いわゆる大名家にまで広まって、現在の名古屋や三重県の津、山口県、福井県のお殿様に書道を教えたこともありました。
その一方で、儒学者としても活躍して、お武家さんの指導も行いました。
お武家さんから一般の人たちまで、幅広い人気があった米庵は、来る日も来る日も書の作品をほしいという依頼にこたえていたので、寝る間も惜しんで書き続けた、とも言われています。
そんな忙しい中、米庵は、書道のほかに漢詩を読み、篆刻・石でハンコを作ることなんですが、これもやり、煎茶も好んでいたということです。
また、書道の道具を集めるのも趣味としていまして、特に中国が唐と呼ばれていたころ、晋と呼ばれていたころの古い時代の書道や絵の作品を集めて、それを研究したいたことで有名です。
その市河米庵、書道では、隷書と楷書が得意でした。
行書や草書の作品もありますが、米庵の作品と言うと、隷書のイメージが強いですね。
隷書といますと、1つの文字の中で「はね」や「はらい」以外で線の太さを極端に変えることはあまりないのですが、その線の太さに変化をつけることによって、文字の面白さも出しています。
さて、この市河米庵、実は富山とかかわりのある人物なんです。
というのも、江戸末期の1811年、富山藩に召抱えられました。
もともと父親の寛斎が、富山藩で儒学を教える家臣として仕えていまして、その流れで息子の米庵も富山藩で儒学の教鞭をとりました。
その富山藩で10年仕えた後、今度は、金沢藩に儒学を教える家臣として召し抱えられて、江戸と金沢を往復しながら指導に当たったそうです。
なお、米庵が書いた文字で作られた額が、黒部市の指定文化財として残されています。
そして米庵といいますと、書道の作品を作る上で、これがあると大変便利とされる本「墨場必携(ぼくじょうひっけい)」を作った人でも知られています。
作品を書くのに適した漢詩や語句などがまとめられているもので、現在はさらに内容が充実していて、この作品を書くときにはこのような字の書き方がありますよ、という、くずし字のサンプルまで掲載されています。