9月6日 gra書パート2
2011年9月6日
「gra書」 書家エピソード VO.22 巻菱湖1777(安永6)-1843(天保14)
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
先週までは、平安時代の「三蹟」をご紹介しました。
今週から3週にわたって、「幕末の三筆」をご紹介します。
今日ご紹介するのはその1人、巻菱湖(まきりょうこ)です。
現在の新潟県に生まれた菱湖は、地元のお寺の住職に書道の手ほどきを学んで育ちました。
そのあと19歳になって地元を離れて江戸に出向いて、以前このコーナーで紹介した亀田鵬斎について、書道と漢詩を学びました。
そののち、29歳の時に自ら書道の塾を開いて多くの弟子を抱えていたということです。書道と漢詩、そして酒を好んだ方でした。
さて、この巻菱湖、オールマイティーな書家でした。
書道には5つの書体、篆書、隷書、楷書、行書、草書がありますが、どの書体もうまく書いていて、なおかつ、かな文字の実力もありました。
というのも、特に漢字においてはそれぞれの書体で1つお手本としてじっくり学んだものがあったということです。
楷書は歐陽詢、チョ遂良、行書は李邕(りよう)と王羲之、草書は賀知章(がちしょう)の「孝経(こうきょう)」、孫過庭の「書譜」、王羲之の「十七帖」、李懐琳(りかいりん)の「絶交書」、隷書は「曹全碑」をお手本として、いわゆる古典とされる昔の作品をよく勉強していたということです。
その中でも菱湖が得意としていたのが楷書で、のちに「菱湖流(りょうこりゅう)」と呼ばれて、幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えました。
当時彼の書道塾のお弟子さんは1万人以上ともいわれていました。
また、明治時代初めに、当時の明治政府が採用した官用文字、いわゆる公文書で使われる文字は、この巻菱湖の楷書の文字でした。
それまでは、御家流(おいえりゅう)と呼ばれたくずし文字だったことから、菱湖の文字の力の大きさがイメージできるのではないでしょうか。
その巻菱湖の作品ですが、いわゆる文人の書道の作品が多かったため、「○○」というタイトルが付いた作品というものがはありませんが、現代の展覧会でも見られるような、細長い紙に漢詩をしたためた作品がいくつも残されています。
ぱっと見た感じでとても分かりやすい文字で、読みやすく書かれています。
こういったところが、明治時代の公文書の文字として採用されたゆえんなのかもしれません。
なお、この巻菱湖の文字は、将棋の駒の文字としても使われています。彼の文字の駒は、タイトル戦など重要な対局で使われる、高級な駒などに用いられています。
これは、菱湖が直接関係したわけではなく、大正時代に入って、当時の将棋の名人、阪田三吉(さかたさんきち)の弟子だった高濱禎(たかはまてい)が、菱湖の文字で駒を作ったところから広まったということです。