8月30日 gra書パート2
2011年8月30日
「gra書」 書家エピソード VO.21 藤原行成972(天禄3)-1028(万寿4)
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
先々週は、平安時代の「三蹟」の1人、小野道風を、先週は同じく三蹟の藤原佐理をご紹介しました。今週は、三蹟のもう1人、藤原行成(ふじわらのゆきなり)をご紹介します。
平安時代のお役人の家に生まれた行成ですが、祖父、そして父が相次いで亡くなり、一族が没落して、他の家の養子に出されるというつらい運命をたどりました。
始めのころは身分の低い役人として働いていましたが、突然、当時の一条天皇の秘書的な役割に抜擢されてから出世街道を走り、天皇と、当時の執政、藤原道長からの厚い信頼を得て幹部にまで上りつめました。
その後、次の天皇になる親王の後見人との呼び声もありましたが、行成は、当時の政治状況、藤原道長の独壇場に巻き込まれないよう、一条天皇の思惑とは別の動きをしたとされています。
その行成、実は、藤原道長と同じ日に亡くなりました。しかし、当時は、道長の死去で大騒ぎだったため、彼の死については気に留める人がほとんどいなかったといわれています。
さて、この藤原行成の書ですが、以前ご紹介した小野道風、藤原佐理と並んで「三蹟」の1人と言われながら、残されている書の作品はあまりありません。
代表的な物の1つとして「本能寺切」があります。
これは、菅原道真が書いた文章を書き写したもので、のちに本能寺に伝えられたということで、「本能寺切」と呼ばれています。
これは行書の作品ですが、とても落ち着いた字の書かれ方がされていて、王羲市の行書を思わせる雰囲気を漂わせています。
ですが、残念ながらかな文字の作品は残されていません。
なお、この藤原行成は、本人だけでなく、子孫も指導の腕のある人物を多く輩出していて、この流れが、のちに「世尊寺流(せそんじりゅう)」と呼ばれるようになりました。
その行成にはこんなエピソードが残されています。
ある日、和歌について他のお公家さんと議論していたところ口論になってしまいました。
相手は完全に怒ってしまって、行成は冠を奪われて投げつけられてしまいました。
しかし行成は取り乱すことなく、事を荒立てることもしませんでした。この様子を当時の一条天皇がチラ見していて、冷静な対応をとる行成に感心して、秘書役に抜擢したそうです。
また、藤原道長が、行成の書道の腕の良さを認めていて、「往生要集(おうじょうようしゅう)」という仏教書を行成が借りたときに、道長は、「原本は差し上げるので、あなたが書きうつしたものをいただけないか」と言われたということです。