5月17日 gra書 パート2
2011年5月17日
「gra書」 書家エピソード VO.6 嵯峨天皇(さがてんのう) 786-842
ここからは、毎回1人の書家をピックアップして、様々なエピソードを紹介します。
今回は、前回に続いて日本人の書家を紹介します。今日紹介するのは、「嵯峨天皇」です。
前回紹介した空海、そして、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで、日本の三筆の1人とされています。
嵯峨天皇は、平安時代の初めに即位した、第52代天皇です。このころは、天皇家と藤原家を巻き込んだ「藤原薬子の乱」という政治事件が発生して京の都が動揺しましたが、これを収束したのが、嵯峨天皇です。
このころは、貴族の中でも力をつけていた藤原家が、南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)の4つに派閥が分かれて、天皇家を巻き込んで勢力争いをしていました。そんな中、式家と北家が争ったのが、「藤原薬子の乱」です。嵯峨天皇についた北家とともに、嵯峨天皇のそばでブレイン役を務めていたのが、前回紹介した空海です。空海は、この乱を収めるための調整役を担ったとされています。
嵯峨天皇と空海についてはこんなエピソードも残されています。
あるとき嵯峨天皇が空海に、中国伝来という手本を見せ「誰が書いたもの定かではないが、すばらしい」と賞賛すると、空海は「これは自分が唐に留学している時に書いたものです」と言った。書風があまりに違い、天皇が信用しようとしなかったので、「唐は大国、日本は小国であるから、書風をそれにふさわしく、場所をわきまえて変えているのです」と答え、天皇は感服した。
さて、嵯峨天皇の書ですが、残念ながら残されているものが非常に少ないです。確実にこれ、とされているのは、「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」です。これは、天台宗の僧侶・光定(こうじょう)が、嵯峨天皇からいただいた直筆の文章で、天台宗に受戒したことを祝う内容が書かれています。
こちらが「光定戒牒」です。 こちらが「風信帖」です。
前回、空海の風信帖を書いたものを並べてみるとなんとなく見えてくるものがあります。この光定戒牒は、空海の書の影響を受けたものだということです。先ほども触れましたが、嵯峨天皇と空海はかなり親しい中です。その交流の中で、書に関しても様々な影響と刺激を受けていたのではないか、ということが推測されます。